瀬戸内寂聴さんが亡くなりました。
生前は歯に衣着せぬ物言いで親しまれました。
そこで今回は瀬戸内寂聴さんの出家に至るまでの半生と、瀬戸内寂聴さんの恋愛における名言を集めました。
まずはご冥福をお祈りいたします。
瀬戸内寂聴の恋愛の名言集!
瀬戸内寂聴さんは生前、たくさんの名言を残されています。
ここでは「恋愛、不倫、別れ」に分けてまとめました。
瀬戸内寂聴の恋愛名言集:恋愛
- 恋を得たことのない人は不幸である。それにもまして、恋を失ったことのない人はもっと不幸である。
- 人は、人を愛していると思い込み、実は自分自身だけしか愛していない場合が多い。
- 妻は、やさしくされることを望んでいるだけではない。やさしい心で理解されることを望んでいる。
- 自分はこんなに寂しいんだから、あの人もきっと人恋しいんだろうと思いやったときに、相手に対して同情と共感が生まれ、理解が成り立ち、愛が生まれるのです。
愛とは思いやる心です
瀬戸内寂聴の恋愛名言集:不倫
- 不倫というのは、しょうがないの、避けられないの。
恋愛というものは理屈じゃないんですから。
急に雷が落ちてくるようなものなのです。
それに当たっちゃったら、もうどうしようもないじゃない。 - 不倫とはいえ、結局のところ、恋愛なんです。
相手に奥さんがいても、それでも好きっていうのは抑えられない。でもね、奥さんを追い出して、自分がそこに収まろうなんて思うのはずうずうしい。
他人の不幸の上には、決して自分の幸せは成り立たないものなのです。 - 不倫で苦しむなら、そんな関係は早く断ち切って、新しい出逢いを待ちましょう。人生に出逢いは一つや二つではありません。
どの出逢いが本当の出逢いなのか、経験してみなければわかりません。
瀬戸内寂聴の恋愛名言集:別れ
- どんなに好きでも最後は別れるんです。
どちらかが先に死にます。人に逢うということは必ず別れるということです。
別れるために逢うんです。だから逢った人が大切なのです。 - 愛する者の死と真向きになったとき、人は初めてその人への愛の深さに気づきます。
「私の命と取り替えてください」と祈る時の、その純粋な愛の高まりこそ、この世で最も尊いものでしょう。 - 別れの辛さに馴れることは決してありません。
幾度繰り返しても、別れは辛く苦しいものです。
それでも、私たちは死ぬまで人を愛さずにはいられません。
それが人間なのです。
瀬戸内寂聴自身は不倫、駆け落ち、三角関係から出家
瀬戸内寂聴さんは生前、たくさんの著書を遺されました。
何度か映像化された作品『夏の終り』に、ご自身の恋愛について詳しく書かれています。
夫の教え子と不倫して3歳の娘を置いて出ていく
瀬戸内寂聴さんは1943年、21歳でお見合い結婚をします。
相手は、中国古代音楽史を研究する学者で、結婚後は北京にて生活をします。
そこで長女を出産。
敗戦のため1946年に家族と共に帰国した瀬戸内寂聴さんは、
夫の教え子を不倫関係に。
瀬戸内寂聴さんは自身の罪の意識に耐えられなくなり、自ら夫に不倫していると告白します。
当然夫は激昂し、瀬戸内寂聴さんを連れて大阪から東京へ引っ越します。
しかし距離ができることで、逆に不倫相手との関係が盛り上げってしまいます。
そして3歳の娘を置いて、不倫相手と京都で駆け落ちします。
離婚して別の相手と不倫
1950年に夫との離婚が成立します。
その頃本格的に小説を書き始めていた瀬戸内寂聴さんは、
妻子ある作家小田仁二郎と不倫関係が始まります。
また再び夫の教え子と再会し、再び不倫関係に陥ります。
つまり、瀬戸内寂聴さんは不倫の三角関係をしていたことになります。
不倫関係を断ち切るために出家
1966年、恋愛関係(不倫関係)にあった作家の井上光晴との関係を清算するために出家しました。
捨てられた娘との関係は?
3歳の時に不倫相手との関係をとって、捨てられた娘さんとの関係はどうなっているのでしょうか。
娘さんは2013年当時はアメリカに住んでいたそうです。
(それ以降、娘さんに言及された記事はないのでどこに住んでいるかは不明)
2013年のインタビューで
昨年、孫とひ孫と一緒に娘がアメリカから帰国。「ひ孫が帰り際に『ばーば、バイバイ』と言ってくれました」
引用元:毎日新聞
と答えられています。
また瀬戸内寂聴さんが出家後、娘さんとは和解済ではあったとされてますが、娘さんに結婚祝いを送ったところ拒絶されるなど、絶縁状態の時期もあったそうです。